Gary Peacock  ゲイリー・ピーコック

bass
Born:May 12, 1935 in Burley, ID

 アイダホ州バーレイに生まれ、ワシントン州、オレゴン州で育つ。ピアノをすこし習ったことかあるが、シュニア・ハイとハイ・スクールではウェスタン・スイング(スイング調のC&W)のドラマーだった。育った地方はシャズが少なく、彼がジャズの存在を知ったのは、16歳の時、トランペットを吹く友人からガレスピー=パーカーの《ソルト・ビーナッツ》をきかされてびっくりし「もう一人のアルトは誰?」と聞きかえしたそうだ。チャーリー・パーカーが一人で吹いているのだときかされ、驚いたという。17歳の時、ロスに出てウェストレーク・カレッシでヴァイブを習ったが、1年後に陸軍に入り、ドイツに駐留。彼が本気で音楽をはじめたのはこの時期で、グループをつくってリーダーとなり、ピアノまたはドラム、時としてヴァイブを弾いたが、ベースに欠員を生じた時、はじめてこの楽器を弾くようになった。「実に不思議なのだが、両手はひとりでにベースを正しく弾きはじめ、常に正確に思った通りの音を出した。そんなわけでベースを習ったことは一度も無い」と語っている。復員するとロスに戻り、テリー・ギブス、ハロルド・ランド、デクスター・ゴードン……とにかくロスのバントで、プレイしなかったのはレッド・ノーヴォだけだったという。

 バド・シャンク=ローリンド・アルメイダのパシフィック盤、『ブラシルの休日』(1958年3月)ではごくふつうのべース奏者であったが、4年後、クレア・フィッシャーの『ファースト・タイム・アウト』ドン・エリスの『エッセンス』に聴くゲイリー・ピーコックのプレイは、もはやふつうのベースではなく、全く新しいタイプのべース奏者となっている。後者は特に、親友ポール・ブレイとの初顔合わせとしても面白い。のち二人はそれぞれの最初の妻君アーネット・ピーコックとカーラ・ブレイを交換し、話題を賑わせたが、今は2人の親友それぞれ、別の妻君と生活している。

 モダン・べースは、もはや単なるタイム・キーパーでもなければ、ハーモニーの供給者でもない。ずばりいって、ホーン・プレイヤーと共にタイムをキープし、ハーモニーの流れを知るメロディストなのである。こうした近代ベース・コンセプションは、1939−40年のジミー・ブラントンを開祖とするブラントンとデューク・エリントンのデュオは、その意味で重要である。全く対等にはり合っているのだ。やがて、チャーリー・ミンガス、ウィルバー・ウエア、レッド・ミッチェルといった名手があらわれ、スコット・ラファロという偉才か出現した。1961年7月ラファロの夭死後、まるでゲイリー・ピーコックがその衣鉢を継いだかのように現われたのである。

 ゲイリー・ピーコックは、どのようにして今のコンセプションを得たのであろうか?彼自身は次のように語る。

 「どうして今のようなことをやりだしたかと聞かれても、よくわからない。きっと徐々にそうなってきたんだろう。気がついてみたら今のようになっていた」

 決定的だったのは、彼がロスでオーネット・コールマンのバックをつとめるチャンスが訪れた日のことであった。オーネットか吹きはじめた時、彼はアッケにとられて棒立ちとなったたが思い切ってべースを自由に弾いてみた。弾けた。「これだッ」と思ったそうである。

 その日から彼はフリー・シャス・プレイヤーとの共演にひけ目を感じなくなった。

 「これが出来るようになると、タイム・キーパーとしての仕事が、まったく馬鹿馬鹿しくなってきた。もしテンポさえきまれば、誰もがおなじビートを感じつつ演奏する。それにわざわざ拍子をつけるのは、ナゾリであり重複であると思えてきた」と彼はいう。

 その頃彼はアル・コーン=ズート・シムズの主流派的プレイを好む一方で、MJQの作品に大きな関心を寄せていた。MJQの音楽は完全なグループミュージックであり、ジャスの将来は、グループ・ミュージックの発展にあると思えたからである。

 「オーネット・コールマンがそのころコンテンポラリーから出したアルバムに《ジス・イズ・アワー・ミュージック》というのがあった。これだッ、と思った。将来のジャズはきっとこのようになる。プレイヤー全員が対等の立場でグループ・ミュージックをつくりだしてゆく。一人一人がリーダーの資格といってもいい」

 1960年代以降のジャズは、彼の予測通りに動き、発展した。彼を有名にしたもののひとつに、アルバート・アイラー(ts)、ソニー・マレイ(b)と彼がトリオを組んで吹込んだ《スピリチュアル・ユニティ》(ESP)という傑作がある。

 彼は1962年、ジミー・ジュフリー・トリオに、スティーヴ・スワローの後釜として加わることによって、ポール・プレイと出会った。当時ジュフリー3のメンバーは、ジュフリー、ポール・ブレイ、スティーヴ・スワローであった。ジミー・ジュフリーという人は、1950年代に早くもドラマーを抜いた編成で『タンシェント・イン・ジャズ』(キャピトル)をつ<ったほど、ドラマーやベース奏者にタイム・キービンクを要求しないニュー・コンセプションの持主である。ピーコックにとってはうってつけの職場だったわけだ。

 オーネット・コールマンとの劇的な出会い以降、彼が一貫して信奉してきたのはイントゥイション(直観)である。

 「誰が何コーラスのソロをとって、誰に渡す」といったヘッド・アレンジはもはや必要ない。必要なのは霊的コミュニケーションで、ドラマーのソロは終り、ホーン・プレイヤーはどこで言いたいことを言い切って終るかを目くばせもそぶりも必要なく感じとる精神的合意が、彼のいう直観である。

 1970年から足掛け3年、京都の在に居を構え、自然食生活を送って話題となった。最初のうちは「もうべースを弾かない。日本には東洋思想、生活を研究のためにやってきた」と断わり続けていた。

album :
TALES OF ANOTHER (1977)
Oracle (1983)
WAVE U (1987)
WAVE V (1988)

参加アルバム :
Trio '64 / Bill Evans (1963)
TURNING POINT / Paul Bley (1964)
With Gary Peacock / Paul Bley (1970)
STANDARDS, VOL.1 / Keith Jarrett (1983)
Live In Montreux 1981 / Chick Corea (1981)
STANDARDS LIVE / Keith Jarrett (1985)
STILL LIVE / Keith Jarrett (1986)
NEW BEGINNINGS / Don Pullen (1987)
MICHEL PLAYS PETRUCCIANI (1987)
ALCHEMY / Jeff Gardner (1990)
OUT A DAY / Franck Amsallem (1990)
AT THE DEER HEAD INN / Keith Jarrett (1992)
SOFTLY... / Marc Copland (1997)

compose :
VIGNETTE
TONE FIELD
MAJOR MAJOR
TRILOGY
Gaya
Flutter Step
Empty Carrousel
Inside Inside
St. Helens
Oracle
Burly Hello



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