西洋音楽史

目次:
原始から古代まで(B.C.〜A.D.300年頃)
中世の音楽 (300年頃〜1450年頃)
ルネッサンスの音楽(1450年頃〜1600年頃
バロックの音楽(1600年頃〜1750年頃)
古典派の音楽(1750年頃〜1820年頃)
ロマン派の音楽(1800年頃〜1900年頃)
20世紀の音楽(1900年頃〜現在)
音楽の始源

音楽は[熱情]的発生と[言語]的発生の相まった状態で生まれた。そしてそのことは、人間の誕生にさかのぼると考えられる。そのことは(比較音楽学)によって学問的に推定されているが、それは、ちょうど人間の赤ちゃんが発する、言葉とも歌ともつかぬものに似ている。

原始から古代まで(B.C.〜A.D.300年頃)

原始時代の音楽

この頃は国家と呼ぶべきものは存在せず,比較的小さな集団で地域に合った生活を営んでいた。音楽においても、楽譜というものは無く、その場で即興的につくられたものか、または人の記憶に残る程度の単純なものに限られる。生活様式と音楽との結びつきは密接であり、協同で作業する人々は合唱や合奏が上手であり、エスキモ−などのように他の人とあまり接触する機会のない人々は合唱や合奏ができない。そして、そのような時代の人々も、あらゆる機会に音楽したと思われ、子守歌や愛の歌、喜びや悲しみを歌ったもの、神をあがめた歌や、作業するときの歌があったと考えられる。また、古代以前の人々には音楽に魔的な力があると考えられ、呪術や医療などにも音楽が使われていた。楽器についても当然使われていただろうと考えられる。草、木、土、石、骨など自然素材を利用し、簡単な笛や打楽器が用いられたと思われる。

古代の音楽

古代文明はB.C.3000年頃から始まった。古代の音楽の様子は、多くの遺跡・文書・楽譜等が発見されているが、解読不可能なものも多く、いまだ全体は明かではない。メソポタミアやエジプトの遺跡には楽器を演奏している様子を描いたものが多くあり、そのことから、かなり進んだ音楽をもち、公私にわたり音楽が重要な役割をはたしていたことがわかる。

一つは生活と結びついた形、つまり狩猟用、農耕に関する行事、冠婚葬祭のための音楽、もう一つは、軍事的あるいは宗教的な儀式や行事などに結びついたセレモニアルな音楽であった。また、そうした音楽に必要な楽器も、この時代にはある程度の形を整え、機能的にも十分に使用に耐えるものになっていた。現在の楽器名でいえば、管楽器では、フルート、オ−ボエ、ホルン、トランペットなど。弦楽器では、リラ、ハ−プ、リュ−トなど、打楽器では、太鼓のほか、シストラム、ベル、シンバルなどが用いられていたことがはっきりしている。また、双管笛の存在は重音の可能性を示している。

古代ギリシアの音楽

B.C.1000頃からギリシア人世界が成立する。古代ギリシアはメソポタミアやエジプトの文化を吸収し、学問や芸術などに高度な文化を築き上げていた。古代ギリシアの特徴として、[ポリス(都市国家)]の集合体としての国家、政治制度として[デモクラシー(民主政治)]、民族の祭典としての[オリンピア]競技会、学問の広場としての[スコラ]等があげられる。また、神殿や数々の彫刻はギリシア神話と宗教の世界を今に伝えている。

 音楽では、(ホメロス)の叙事詩<イリアス>と<オデュッセイア>が(キタラ)や(アウロス)の伴奏で吟遊詩人たちに歌いつがれ、ギリシア人の間に広く普及し、(ギリシア悲劇)と呼ばれる演劇の世界では、3大詩人といわれる、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスがでて、その頃にはすでに劇場音楽の形に整えられ、現在の歌劇と同様の内容であった。劇中には合唱も挿入され、その伴奏楽器として1・2本のアウロスが、また独唱にはキタラが用いられていたようである。合唱のことをコロス、その場所を(オルケスタ)と呼んで現在のオーケストラの語源となっている。

音楽理論も発達し、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど哲学者が多く出て、彼らが大きく貢献した。完全4度の間に2つの音を挿入してできる[テトラコード]といわれる音列を組み合わせてできる[ギリシア旋法]を整え、いろいろな楽器や旋法についての性格等について、生活と社会、あるいは国家とか教育とかいう見地から論じた[エトス論]がある。古代ギリシアの楽譜はアルファベットの文字で表され、通常は単旋律で演奏されたが、理論的にはハーモニー(和音)の存在も考えられていた。拍子は5拍子、7拍子、9拍子というように変わった拍子であるが、これはギリシア語のリズムに従ったものである。これらギリシア文化はアレクサンダー大王のマケドニア王国に興ったヘレニズム文化に吸収され、生き続けていくのである。

ロ−マ時代の音楽

ロ−マ帝国はB.C.30年、地中海全域とその周辺地域をすべて支配下にいれた。音楽は奴隷としてのギリシア人に演奏させて、自らその創造に参加することはなかった。しかし、ギリシア以来の音楽や楽器は継承し、特に、軍隊用のラッパの種類は豊富であった。また、B.C.3世紀には水圧式オルガンがアレクサンドリアで考案されている。キリスト教については、始めは弾圧を加えていたが、急速な普及の後、313年に公認するに至った。その間に、後の時代に花開く典礼音楽が徐々に準備され、成長していった。
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中世の音楽 (300年頃〜1450年頃)

中世ヨーロッパ世界

中世ヨ−ロッパは封建制度の時代であり、数々の英雄伝説のうまれた騎士階級の時代であった。また、キリスト教全盛の時代であったといわれるように、芸術・文化は全て神を賛美するためのものとして発展したが、反面、その教義に反するものは宗教裁判にかけられ弾圧を受けた。天が地を中心に動いていた天動説、魔女がいるということを本当に信じていた時代である。一般庶民には文字が読めなかったことも見逃せない。それゆえに、中世は暗黒時代であったともいわれる。

グレゴリオ聖歌

キリスト教はことのほか音楽を重んじた宗教である。始めは詩編を朗唱する詩編唱とギリシアから受け継いだ賛歌を歌っていた。どちらも単旋律の音楽で、今日のような意味でのリズムはなかったし、伴奏もなかった。歌い方には応唱と交唱とがあった。キリスト教が公認され、カトリック教がローマ帝国の国教となるにしたがい、教会の組織も統一、拡大され、典礼の形式とそれに用いられる聖歌も整えられるようになった。4世紀後半に典礼音楽が形式的にもまとめられるようになった。その後、6世紀末にローマ教皇、グレゴリウスT世が現れて、それまでに集積された聖歌が彼の名のもとで集大成され、典礼音楽の形式的確立、教会音楽学校の開設、教会旋法の制定など、重要な業績を残した。

この時点でまとめられたローマ・カトリック教会の典礼音楽を総称的にグレゴリオ聖歌と呼んでいる。聖歌は通常文とクリスマスとか復活祭とかいう特定の日に用いられる固有文がある。通常文の歌詞が一定しているのに対し、固有文のほうはときによって変化することがあった。また、通常文では2つの合唱による交唱形式が、固有文では独唱風な旋律による応唱が用いられ、特にアレルヤでは後にその部分が発達し、今日で言う作曲という概念に近づいていった。

ポリフォニ−の発生と発展

ポリフォニ−というのは、いくつかの声部がそれぞれ独立性を持つ旋律として存在しながら、同時に、全体として調和を保っていくという書法による音楽をいい、多声音楽あるいは多旋律音楽などと訳されている。対位法は技法上の用語である。最初のポリフォニーは、850年頃、グレゴリオ聖歌を定旋律として、これに新しい声部を加えるという形で始まった。これを[オルガヌム]といい、これの最も初期のものは[平行オルガヌム]と呼ばれるものである。これは完全4度または5度で、厳格に1音符対1音符の、定旋律に平進行の形で付けられたものである。そにうち、だんだんにオクターブ上に重複したり、斜進行や反進行なども使われるようになり、[自由オルガヌム]という形が生まれた。さらにそれは、定旋律を引きに伸ばし、上声部を細かい音符で装飾して行くようになるが、その頃には1音符対1音符のものは、オルガヌムと区別して、[コンドゥクトゥス]と呼ばれるようになる。

ノ−トルダム楽派

1150年頃から約1世紀にわたりパリのノ−トルダム大聖堂の音楽家たちによる活動があった。中心的な音楽家は[レオニヌス]と[ペロティヌス]である。レオニヌスは、引き伸ばされた定旋律に対しモ−ダル・リズムによる対旋律を付けた2声のオルガヌムを、教会歴による1年間の典礼用に〈マグヌス・リ−ベル〉を作曲した。ペロティヌスはそれをさらに3声に編曲し、上声部をいっそう旋律的にするなどして初期ポリフォニーの技法を一段と進歩させた。

アルス・アンティカの時代

ノ−トルダム楽派の活動を引き継いだ後の70年間をさす。この時期には、定量記譜法がさらに進歩し、モテトゥスと呼ばれる新形式の音楽が隆盛期を迎える。モテトゥスとは本来「言葉の与えられた声部」という意味であるが、ラテン語の定旋律を同時に説明する声部がフランス語で書かれることになり、結果として、各声部の独立性を強めることになり、世俗性を帯びることにもなった。さらに、各声部のリズムを明確にする必要上、定量記譜法がさらに発達し、対位法のごく初期的な形が確立されることになった。この頃の作曲家として、アダン・ド・ラ・アルとフランコ・デ・コロニアなどがいる。

アルス・ノ−バの時代

1300年代になって、いよいよ本格的なポリフォニ−の時代に入った。特徴として、定量音符の記譜法がいっそう精密になり、単調で周期性の強いリズムから比較的自由なリズムの使用へと変化し、1度、4度、5度、8度といった完全協音程が中心であった響きに、3度や6度の不完全協音程の使用がめだつようになった。そして、音楽が世俗性を指向するようになり、やがて自立性芸術として教会音楽から離れる傾向を示し始めた。この時代の代表的な作曲家として、マショーの名があげられるが、彼はミサ曲の通常文全体をポリフォニーの技法で作曲した。また、この時代の中心的な楽曲は、これまでのものに比べると、世俗的な詩を用いることがますます盛んになり、同時に、長大な楽曲として作られるようになった。他に、世俗的な楽曲として、バラ−ド、ロンドー、ビルレー、シャンソン・バラード、シャッスがあるが、ポリフォニー楽曲でありながら、しだいに上声部に主体性が移ってゆき、和声的な傾向も現れはじめた。

中世の世俗音楽

キリスト教文化全盛の時代にあって、一般民衆の音楽が全く無かったかというと、そうではなく、むしろ盛んに行われていたと考えるほうが自然である。だが、当時の民衆は文字の読み書きはできず、楽譜の読み書きもできなかったので、音楽は口から口へと伝えられ、受け継がれていった。そのような音楽を民謡という。12世紀の南フランスにトルバドゥールと呼ばれる騎士や貴族階級の吟遊詩人が現れ、男女の愛や、生活的な内容の歌をうたった。しかし、はじめのうちは彼ら自身は演奏せず、流浪芸人であるジョングルールに任せていた。彼らは最下層の身分であり、芸を売って生活してゆくということから、音楽を楽譜に残すことはなかった。13世紀には、世俗音楽の中心は北フランスに移った。それをトルベールと呼ぶが、その階層は貴族階級からしだいに一般市民層へと移っていった。中世の世俗音楽は教会旋法のうち[イオニア旋法]と[エオリア旋法]が多く使われており、3度の進行が多いのが特徴的である。また、音楽は単旋律ながら、多分に韻律的であり、簡明でリズムがはっきりしており、極めて直接的で、人間の感情を非常に開放的に歌いあげている。

中世の記譜法の変遷

8世紀の頃、音の動きの変化を表すだけの記号が使われていたが、後に方型音符に変化した。これらをネウマと呼ぶ。11世紀には譜線を用いて音程を表すようになったが、線の本数が5本に定まるのは15世紀のことである。また、音の固定した高さを表すために、線のうちの1本にCやFやGを書き込んだが、これが後に音部記号となる。音の長さの組み合わせについては、13世紀まではモーダル・リズムによって読みとることができたが、13世紀後半から、それぞれの音符の長さの比率を規定した定量記譜法が生まれた。まだ、小節線は生まれてないが、拍子記号はこの時に生まれている。

教会旋法

ロ−マ教皇グレゴリウスT世は、正格と変格それぞれ4種ずつ、8旋法を制定した。中世の音楽は全てこの教会旋法に基づいている。これは、現在の音階とは異なり、固定した高さを表しているのではなく、旋律の節回しを音階的にまとめたものであった。16世紀には更にイオニアとエオリアのそれぞれに正格と変格の4旋法が加えられ、現在のハ長調、イ短調となって残ったのである。

正格第1旋法(ドリア旋法)
正格第2旋法(フリギア旋法)
正格第3旋法(リディア旋法)
正格第4旋法(ミクソリディア旋法)
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ルネッサンスの音楽(1450年頃〜1600年頃)

ルネッサンス時代の流れ

中世的な封建社会がしだいに崩れ、より強力な諸侯が国王として君臨する近世的な国家形態が成立する。そうした中で教会の権力は衰退し、近代啓蒙思想、人文主義が台頭し、人間性の解放が叫ばれた。

この時期、ポリフォニー[多声音楽]の発展がめざましく、対位法技法とイギリス民謡に基づく3度と6度の同時平行進行の多声音楽を融合し、発展させた。また、同じ頃ブルグンドの宮廷では、上声部に動く装飾的な旋律を下声部で支えるという形での3声部書法による多くの作品を残している。15世紀後半から16世紀末までのネーデルランド楽派は、音楽を宗教的・教会的な性格から、音楽自体の芸術性の追求に目的をおいた。また、ベネチアにおいては、2つの合唱隊による二重合唱様式を生みだし、バロック時代へ大きな影響を与えた。

ルネッサンス時代の楽曲

対位法による多声部の声楽作品が大部分を占める。
宗教音楽、ミサ曲、教会の典礼音楽。

キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの五部から成る。
モテット=モテトゥス
時代によりいろいろな変遷を受けるが、ミサ曲以外の宗教的合唱音楽のほとんどはモテットである。各声部の独立性を強調した合唱音楽で、モテトゥスとは"言葉の与えられた声部"の意味。アルス・アンティカの時代にはオルガヌムの定旋律の上声部に定旋律の歌詞を説明する歌詞がつけられ、その声部をモテトゥスと呼んでいた。
コラール
プロテスタント教会の賛美歌。旋律を最上声部におき、下三声部が和声的にこれを支えるという形の合唱曲。

世俗音楽

マドリガル
モテットに似た世俗合唱曲。16世紀後半にはポリフォニックな要素が強められた。

シャンソン
フランス語の世俗合唱曲。16世紀後半になるとホモフォニックな要素が強められた。

器楽作品
ファンタジア    厳格な対位法音楽。
リチェルカーレ   同上
トッカータ     自由で即興的な音楽。
プレリュード    前奏曲。自由な音楽。
変奏形式のもの

楽器

ビオール族
     (バイオリンの前身楽器で,これの合奏をビオール・コンソートという。)
リュート  (現在のギターに似た楽器。)
オルガン  (15世紀末にほぼ現在の形になる。)
バージナル (小型のチェンバロ。)
リコーダー

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バロックの音楽(1600年頃〜1750年頃)

バロックの時代

バロック時代のヨーロッパ世界は専制君主政治による絶対主義の時代であった。音楽家たちは、宮廷につかえるもの、教会につかえるもの、ハンノーバーなどの自由都市の音楽家という三つのタイプにわかれて活躍した。

バロックとは、[いびつな真珠]という意味である。これは、ルネッサンスにおける芸術の完成された様式美を丸い真珠にたとえ、バロックの力強い動静が丸い物を楕円に変えたことを意味する。楕円には中心がふたつあることから"二極性の時代"ともいう。この時代の絵画に明暗のあきらかな対比があるように、音楽にも速度・強弱・音色などの対比や感情の表出などを特徴としている。

オペラの誕生と発展

最初のオペラはフィレンツェの文化人グループ「カメラータ」に誕生した。彼らはそれまでのポリフォニックな書法に反発、ギリシャ悲劇にその理想を求め、音楽の劇的表現を目指した。そのために、詩を叙唱風、つまり歌と話し言葉の中間をいくような旋律で歌い、それに通奏低音という簡易和声法によって器楽伴奏をするという方法を用いた。この手法によって、1600年頃ペーリは最初のオペラ「ダフネ」を上演した。

この新様式の音楽はたちまちイタリア全土に広まったが、ベネチアのモンテベルディによりいっそう大きく発展した。彼は従来の諸形式と新様式の技法を融合し、叙唱風な独唱をより旋律的なものとすると同時に、表現内容を深め、劇的な要素を盛り上げた。また、その伴奏に合奏形態を用いて、後のオ−ケストラ音楽への道を開いた。

17世紀後半から18世紀初めにかけて、イタリアオペラの活動の中心はベネチアからナポリに移る。美しく華やかに繰り広げられるイタリアオペラはヨーロッパじゅうを魅了した。イタリアオペラが発展していく中で、フランスでは、それを受け入れようとはせず、むしろ、宮廷バレエと呼ばれる歌劇に近い舞踊が中心であった。フランスオペラは17世紀後半に、宮廷バレエにイタリアオペラの手法を取り入れる方法で成立した。フランス語の抑揚を生かし、音楽を言葉に従わせるという方向性、また、イタリア式序曲とは反対の緩・急・緩の組み合わせによるフランス式序曲の創始にあたって、純粋の器楽曲の範囲を拡大して、以後の器楽分野にも大きな影響をあたえた。

バロック時代の器楽

この時代はバイオリン族が発明され、イタリアのクレモナで数多く名器が作られた。そのことにより、合奏形態としてオ−ケストラの形をとるようになる。

ベネチアに生まれた協奏様式とオペラが結びついた器楽版として合奏協奏曲(=コンチェルト・グロッソ)や独奏協奏曲(=ソロ・コンチェルト)が生まれ、発展した。また、すぐれた名人芸(=ヴォルトォ−ゾ)が排出したが、室内ソナタ、独奏ソナタ等のバイオリン音楽が生まれた。これらの作曲家としてビバルディなどがあげられる。

鍵盤楽器の分野では、オルガンとその他のものとしだいに区別が明確になってくる。オルガン音楽はファンタジー、トッカ−タ、プレリュード、シャコンヌ、フ−ガなど、チェンバロやクラビコードの場合は組曲が中心となってくる。オルガン音楽は主にドイツで発展するが、その流れの上にバッハが現れる。

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古典派の音楽(1750年頃〜1820年頃)

1750年にバッハが亡くなったことは、バロック時代の終りを告げる象徴的な出来事であった。その前後20年間ぐらいはバロックから古典派への過渡的な時期で前期古典派の時代と呼ばれることが多い。また、1789年にフランス革命が起こり、社会体制はもちろん、人間の思想にも大きな変化をもたらすことになった。啓蒙思想ができ、絶対主義体制下にあった人々が絶対主義に対して疑問を持ち、心のよりどころとして、信仰の代わりに、人間の理性に求めようとしたのである。しかし、といって急に社会体制が変化したわけではなく、この時期の音楽家達は皆宮廷や教会に仕える奉公人であった。モーツァルトやベートーベンの場合は例外であるといえる。

音楽の特徴

この時代の音楽の特徴は、これまでのポリフォニー=多声音楽に代わって、ホモフォニー=和声音楽になったということである。そして、作曲家達は整然とした形式と音楽的内容の均衡を追求した。それは啓蒙思想によって育まれた合理主義精神に基づいている。

理論面では、1722年、フランスのラモーが和声論を発表してその後の機能和声の基礎を確立し、フックスはグラドゥス アド パルナッスムを書いて作曲法に関する理論の基礎が固められていった。ホモフォニーの生んだ最高の形式[ソナタ形式]は、極めてメカニックな形式で、これは、J.S.バッハの息子らや、シュターミッツ父子、などのマンハイム楽派によってその基礎が作られ、ハイドン、モ−ツァルト、ベ−ト−ベンに受け継がれ発展したのである。

交響曲

マンハイムの宮廷にはシュターミッツを指導者とする50人ほどのすぐれたオーケストラがあった。このオーケストラの活動で注目すべきことは、一つは4楽章形式の交響曲の原型をつくったことと、もう一つは、微妙な強弱変化をつけて、いわゆるマンハイムクレッシェンドなどの演奏方や管弦楽の色彩的な使用など、オーケストラの合奏としての機能性を拡大し、確率したことである。交響曲は、もともと歌劇の序曲として用いられていたシンフォニアから発達し、イタリア式序曲の[急緩急]という形式に、トリオ付きのメヌエットを導入することで4楽章のものとして定着することになった。モーツァルトの晩年の頃クラリネットがオーケストラに常置されるようになり標準的な2管編成が確立される。

ピアノの音楽

鍵盤楽器の分野では、チェンバロやクラビコードにとって代わってピアノがその首座を占めるようになる。これは1709年クリストフォリによって発明されたものであるが、楽器としての機能が整えられ、広く用いられるようになるのは18世紀後半、ハイドンやモーツァルトの後半の作品からである。この楽器のために、チェンバロ時代に多く作られた組曲はしだいに姿を消し、ソナタが定着し、バロック風な協奏曲に代わって独奏協奏曲が盛んに作られるようになった。

グルックのオペラ改革

オーストリアではグルックがオペラ改革を進めていた。それまでのイタリアオペラは歌手の技巧が中心であったが、台本の言葉を生かし、それにふさわしい音楽を付けることを考え序曲を歌劇全体の劇的な内容と結び付けるなど、歌劇を本来の姿に戻そうとしたのである。作品としては〈オルフェオとエウリディーチェ〉が有名であるが、1774年の〈アウリスのイフィゲ−ニァ〉がイタリア歌劇支持者たちを刺激し、モーツァルトの三大オペラ<ドン ジョバンニ>・<フィガロの結婚>・<魔笛>はそのような基盤を受け作り上げられたのである。

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ロマン派の音楽 (1800年頃〜1900年頃)

ロマン派とは

ロマン派とは、何よりも個人の人間性を尊重し、人間に本来備わっている感情を自由に表現することを至上のものとした人達のことである。ロマンティックという言葉のように、空想的、夢幻的、牧歌的な世界へのあこがれという形で表現するこのロマン主義は、18世紀のヨ−ロッパを支配していた啓蒙主義に対する反動として生まれた。ロマン派の音楽は18世紀の終わり頃から始まり、1830年前後までを初期、それから1880年までの盛期、19世紀後半に入ってから20世紀まで尾を引くような形での後期という3つの時期に分けて考えることができる。

リート

ロマン派音楽の特徴として、第一に、音楽と文学との結びつきが上げられるが、その代表的なものとして<歌曲=リ−ト>があげられる。詩と音楽が一体となって、その文学的イメ−ジが音楽によりさらに深められたものであり、典型的なロマン派音楽の曲種である。音楽史においてリートという場合には、シュ−ベルトに始まり、シュ−マン、ブラ−ムス、リヒャルト シュトラウスと引き継がれていくのである。

ピアノ小品

ロマン派はリートと同じような世界をピアノのための作品に生みだした。それはピアノ小品と呼ばれる、形式に束縛されない自由な感情の表出、個人的な情緒の世界をごく短い作品にまとめた、音楽の新しい形式分野である。シュ−ベルトは「即興曲」「楽興の時」を書き、メンデルスゾ−ンは「無言歌集」、シュ−マンは「子供の情景」「謝肉祭」などの組曲と、数々の香り高い作品が生み出されたのである。また、ショパンはパリのサロン的な要素と故国ポ−ランドの民族的な要素のとけあった魅惑的な音楽を、それとは対象的な、ピアノの表現機能をオ−ケストラに匹敵するほどに拡大した超人的な技巧の持ち主、リスト、内面的な深い瞑想のような味わいをたたえた作品のブラ−ムスなどによって、音楽史上大きな流れを作る。この背景には、ピアノが市民階級の一般家庭に普及したことと、ピアノにおけるリストやヴァイオリンにおけるパガニーニのような名人芸(ヴォートゥーゾ)的な、演奏技術を誇示する巨匠主義が上げられる。

交響的作品

音楽と文学の結びつきはオーケストラの作品においても新しい形式の音楽を生みだした。ベルリオ−ズは"幻想交響曲"などのように物語を交響曲で表現した[標題交響曲]を作曲し、リストは詩情を管弦楽で表現した[交響詩]を創始した。これらの音楽は、音楽を言葉によって説明し、作曲者が描こうとした世界をより正確に聴取してもらおうとしたものである。そのために、ベルリオーズは、[イデーフィクス=固定楽想]と呼ばれる動機的な断片を用いて、音楽の進行中に具体的な手がかりを聴き手に与えた。リストは、さらに、主題ないしは動機に変化を与えながら、それを曲全体に用いるという[メタモルフォ−ゼ=変容]と呼ばれる方法を用いて、標題的な性格を強調し、形式的に自由な多くの名作が書かれるようになった。また、ベルリオ−ズは1844年に「近代楽器法と管弦楽法」という書を公刊し、その後のオ−ケストレ−ションに大きな影響を与えた。その結果、ワーグナー、の楽劇、ブルックナー、チャイコフスキー、マーラーなどの交響曲、リヒャルトシュトラウスの交響詩などに大作の傑作が生まれた。

ロマン派のオペラ

イタリア歌劇の伝統は、娯楽と社交の場である歌劇場の名歌手の歌声を活かした旋律中心の音楽にあった。ロッシーニは<セビリアの理髪師>により、単なる娯楽的な作品ではなく、より洗練された味わいのある劇音楽に改め、それに続くベルリーニ、ドニゼッティも美しい叙情的な旋律とドラマティックな表現を身上とする作曲家であったが、ベルディの「リゴレット」によってその様式は完成された。彼の作品は現在の世界の歌劇場の主要なレパートリーになっている。

ドイツにはウェーバーが出て、ドイツの伝説などに題材を求め、ドイツ語による台本を作り、ドイツロマン主義の音楽を付けることによって、ドイツ国民歌劇の伝統を確立し、ワーグナーに引き継いだ。ワーグナーはさらに押し進め、自ら唱えた「総合芸術論」により音楽、文学、哲学、舞台装置やコスチュ−ムなどの美術、登場人物の演技などの全てが総合された楽劇を創始した。そこでは[無限旋律]という途切れることの無い旋律作法や、ライト モティ−フ=示導動機を用いて、劇全体に連続性を与え、有機的に統一した。

また、この時期のフランスでは、叙情歌劇と呼ばれるメロドラマ風な作品が盛んに作られ、主な作曲家としてトマ、グノー、サンサーンスなどがいるが、そうした中で、ビゼーの"カルメン"はずばぬけたおもしろさである。

国民楽派

フランス革命以後、フランスの第2共和政、第3共和国、ドイツ帝国の成立、イタリア王国の誕生、ロシアの農奴解放、等19世紀のヨ−ロッパ社会は政治的な変動や社会的な変化があいついで起こり、その結果、列強は帝国主義的な方向をとるようになっていったが、一方では、自由主義的な考え方に基づいた市民階級を中心とする民族的な結集が顕著であった。音楽家たちもそのような傾向を反映する作品を数多く生みだした。彼らのことを国民楽派と呼ぶが、彼らはそれぞれ、技法的にはロマン主義、の延長上にあると考えることができるが、自国の民族的な旋律やリズム、舞踏、物語などを素材とした音楽を書いたのである。そして、それは、それまでのロマン派音楽を支配していたドイツ音楽に対する、他民族の音楽家の自己主張でもあった。

ロシアにはムソルグスキー、また、20世紀にはいってからスクリャ−ビン、ラフマニノフがでて、ロシア音楽の発展に寄与した。チェコにはスメタナ、ドヴォルザーク。ノルウェーにはグリーグなどが有名である。

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20世紀の音楽(1900年頃〜現在)

時代背景

20世紀は機械文明をいっそう進歩させ、人々の生活のテンポも速くなり、人間のものの見方や考え方に変化をもたらした。芸術の世界では、印象主義のほか、文学における象徴主義、美術界におけるフォ−ビズム=野獣派、ドイツでの表現主義が生まれ、思想界では、唯物論的な傾向への反省、生の哲学、人間の実存についての追求が行われていた。音楽の世界では、ロマン主義音楽の流れを汲む伝統的な書法による音楽と、ドビュッシーを始祖とする印象主義から始まる新しい音楽の流れが第一次大戦まで併存、あるいは混在しながら進行し、常に新しくあらねばならないという課題から新技法がつぎつぎと生まれ、互いに影響しあいながら、前衛音楽につながっていく。

近代フランス音楽

19世紀前半のフランスでは、なんといってもグランドオペラが全盛だったが、しかし、その一方で、フランク、デュパルク、など、あるいは、そのグループとは対照的な存在であるサンサーンス、フォーレなどが現れて,器楽や歌曲の分野で多彩な作品を書いた。彼らは、フランスの伝統に根ざしたフランス芸術の創造を相言葉に、1871年、[国民音楽協会]を設立し、20世紀のフランス音楽の隆盛を導いた。

フランス印象主義

20世紀の音楽は、ドビュッシーの印象主義音楽で始まると一般には考えられている。印象主義の最初の作品といわれる"牧神の午後への前奏曲"を発表したのは1894年のことであるが、この作品は、それまでの伝統的な書法、あるいはワーグナー風なそれとも全く異なったものであった。印象主義の音楽とは、六全音音階を使用し、これまでの機能和声から脱皮して、色彩的な和声を使用、自由なリズムや拍子を用いて、象徴的、暗示的表現をしたものである。それにより、光と色彩の織りなす雰囲気を表現したり暗示したりする繊細で微妙な動きの音楽を生みだした。

印象派のもう一人の重要な作曲家はラベルである。彼は印象派初期における音楽の曖昧さを嫌って、明快な音の構成や、磨き上げられた作曲様式を確立した。すなわち、表面的には同じ書法でありながら、それを古典的な客観性や形式性で裏づけ、理知的で理論的な技法で処理している。また彼は管弦楽法の大家でもあり、それらにより、絢爛たる管弦楽曲や透徹した美しさを誇る数々のピアノ曲を残した。

脱調性

19世紀から20世紀に変わった時、作曲家のだれもが前の世紀からの音楽の束縛から抜け出そうと考えていた。技法的なことから言えば、古典派以来の伝統的な音楽を成立させている調性から離れること、あるいは調性を破壊するという方向で模索された。そのために、従来の音階に代えて、中世の教会旋法を用いた新旋法音楽や、二つ以上の調性を同時に響かせた複調性音楽、多調性音楽が作られたが、これらは[新音楽(ノイエ・ムジ−ク)]と呼ばれ、フランスのオネゲル、ミヨー、プーランク、ドイツのヒンデミット、ソビエトのストラビンスキーなどがこの運動に積極的な役割を果たし、[表現主義]、[未来主義]、[新即物主義]、[バーバリズム]などと呼ばれる表現方法を開拓していったのである。特に、ロシアのストラビンスキーは原始的なリズムが変転する拍子の中で踊り、絶えず拍節移動してアクセントの唐突さを演出する強烈なリズム、不協和音の連続する大胆な和声による音楽を作り以後の音楽家に影響を与えた。これらの作曲家は1930年代に入ると、反調性=反ロマン主義という立場から必然的に古典音楽への回帰がみられ[新古典主義]と呼ばれた。

表現主義

ウィーンに生まれたシェ−ンベルクは、初期の頃はロマンティックな作品を書いていたが、1920年代に入ると[12音技法]を確立した。これはオクターブ内に含まれる全ての音を平等に取扱い、中心音の存在を否定し、作品から調性感を完全に排除した。そのために、12の音を全て一回ずつ使って"セリー”と呼ばれる音列を作り、それをいろいろに組み合わせることにより音楽を作り上げるのである。この技法は、直弟子であるヴェーベルンとベルクのほか、第二次世界大戦後の多くの作曲家に非常に大きな影響を与えた。

新しい民族主義

20世紀のハンガリーにはバルトークとコダーイが出て、ともに埋もれていたハンガリー民謡を収拾し、[新しい民族主義の音楽]を作った。これは、ロマン派における国民主義の作曲家たちのように、西欧的な音楽への色づけのようには使わず、民族音楽をむき出しのまま現代音楽の新素材として使い、現代の作曲技法は、それを強調するための手段として音楽を生み出している。チェコのヤナーチェックも同様な考え方で作品を残した。

社会主義リアリズム

社会主義体制下にあるソ連では音楽作品に対しても国家の干渉があった。そのような技法的にも、内容的にも制限のある中、<社会主義リアリズム>の理念に基づいて、すぐれた作品を残した作曲家たちがあった。代表的な作曲家としてはショスタコービッチ、ハチャトゥリアンがあげられる。

前衛音楽

第二次世界大戦後、電子技術の発展が音楽素材に大きな影響を与える。ドイツのシュトゥックハウゼンが[電子音楽]への道を拓き、フランスのブーレーズによって、物音をモンタージュした[ミュ−ジックコンクレート=具体音楽]がひらかれた。これらにより、音楽は楽音により構成されるものという従来の音楽感は大きく変化し、また、1950年代、ジョン・ケ−ジの行った[偶然性の音楽]が出るに至っては、音楽そのものの概念を制約するものは、大きく取り払われた。その後も、実験的な音楽の試みも多く行われ、まさに、現代は多様化の様相を呈している。
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